Wednesday, September 30, 2009

なぜ、自分のやり方で礼拝をしてはいけないのですか?

ムスリムは1日5回、決められた時間幕に礼拝をするよう求められています。礼拝ではアラビア語の聖クルアーンの節を読誦します。礼拝の姿勢には立礼、屈礼、平伏、そして正座が含まれています。イスラムに帰依して以来、私はなぜこの方法で礼拝をしなければ成らないのか疑問でした。全てを維持する永遠なる方アッラーと対話するために、日常の活動を5回停止するのはとてもいいことだと思います。でも礼拝中は丸暗記したアラビア語の読誦に奮闘しなくてはなりません。私の母語ではないし、アラビア語での読誦が自分の心からのものとは感じられないのです。礼拝中の座位の姿勢も、慣れていない者にとってはあまり座り心地が良いとは言えません。アッラーと対話をしようとしているのになぜ、気持ちが挫けるような困難な状況で礼拝しなければいけないのですか。もっと楽な姿勢で、心のままに対話した方がいいと私には思えるのです。

私達は皆、創造主の奴隷です。

私達にはナフス(自我)があるため、だれかの奴隷であるという考えにはいつも抵抗を覚えます。私達は誰に対しても自分を低く置くことは絶対にしたくないのです。真実は、私達は皆奴隷だということです。私達に選べるのは「誰の」奴隷であるかということだけです。

ナフス(自我)の奴隷

殆どの人は自分のナフス(自我)に仕えています。社会的地位、高学歴、高収入など、どんなものが手に入ったとしても、私たちのナフス(自我)は休むことなくもっと要求してきます。まるで非道な奴隷の雇い主のように私たちのナフス(自我)は、こうせよ、ああせよ、こうなれ、ああなれ、と強要し続けるのです。私達は自分は自由だと思っています。私達は、誰にも仕えていないと思っています。真実は、私達はナフス(自我)の奴隷のだということです。代わりにアラーに仕えることを選ぶまでは。

試練としてのナフス(自我)

私たちのナフス(自我)は恩恵にも、災いのもとにもなりえます。それは私達の試練です。私達をアッラーの元に近づけることにも、あるいはアッラーから私達を引き離すことにも成りえます。それは私達が、何を選ぶかによります。もし私達が、自分のナフス(自我)の要求に依然として奴隷としてのように捕らわれたままでいると、ついには災難と不幸に至ります。私達の思考と行動は、私達のナフス(自我)を強くするか、打ち砕くかどちらかです。夢ばかりを追い、働動にいちいち反応し、欲望を満たし続けることがナフス(自我)を強くします。

礼拝し、食事し、働動を抑制することがナフス(自我))を飼いならし、弱くします。もし、私達にナフス(自我)を飼いならすことができるようになれば、それは真の解放と幸福への切符となります。それは慈悲深いアッラーへの道程へとつながる正しい道に私達を据えてくるものなのです。自分のやり方で礼拝することは、ナフス(自我)に仕えることだと、今は分かります。むろん、アッラーは私達に、彼に対して心を開くよう望んでいます。アッラーに心から礼拝することは呼吸をするように自然であるべきです。でも、それは要求されている毎日の礼拝とは別のことです。もし、自分が好きなときにだけ好みの方法で礼拝をしたとしたら、私達はまだ自分のナフス(時が)に仕えているのです。

慈悲深いアッラーに仕える。

アッラーは、1日5回一定の方法で礼拝することを私達に命ずることで、ナフス(自我)を抑制するための秘訣を私達に与えています。毎日の礼拝の中で、私達の都合や快適さは考慮すべきことではないのです。慈悲深いアッラーの命令に完全に、そして無条件に服従することだけが、私たちにとって考慮すべきことなのです。

困ったナフス(自我)!

もちろんナフスは、私達がナフスを無視し、代わりにアッラーに服従することが気に入れません。ナフスは文句を言い、私達にこういいます。「何でこんな方法で礼拝しなきゃならないの?礼拝なんかしたくない!」私達の返事はこうです。「あのね、お前はボスじゃないのよ、アッラーが私主で、私はアッラーに仕えるの。」「お前を幸せにすることが私の人生の目的ではないの。おまえに仕えていると私は不幸になってしまうわ。」

「アッラーに仕えることこそ私の本当の目的であり、私の喜びなの。」「毎日の礼拝は、おまえ(ナフス)と私がどんなに必死に要求に応じても決して満足しません。でも、アッラーは私達のどんな努力にも満足してくれます。私達が日々ナフス(自我)に向けている注意と奉仕をアッラーに捧げたら、どんな結果になるか想像してみてください。ジハードとは、自分のナフス(自我)をコントロールするための戦いです。ジハード、つまり自分の内面の敵ナフス(自我)との戦いに奮闘努力することが最も難しく優れた戦いであると言うことが、今は分かります。あなたのナフス(自我)を仰得る方法を示すアッラーの道へようこそ。

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Sunday, September 27, 2009

礼拝のための洗浄

イスラムでは、洗浄であることはイマーン(信仰)の一部とみなされています。心の邪悪な思いと体の汚れを取り去り、心身ともに洗浄にしなければなりません。ムスリムは礼拝を行うにあたり、心身ともに洗浄にしなければなりません。「洗浄」とは、自分自身を洗浄することで、礼拝のために純粋な状態になることです。「洗浄」はアラビア語で「ウドゥー」と言います。全能の神アッラーに礼拝を受け入れてもらうためには、ウドゥーを正しく行うことが重要です。もし、射精、性行為、死(殉教者以外)があった場合は、ウドゥーを行う前にグスル(全身沐浴)をしなければなりません。

それ以外にグスル(全身沐浴)画必要なのは、生理後、ウィらーだ(出産後)、ニファース(出産後の子宮からの出血)があった場合です。グスル(全身沐浴)で大事なことは、アッラーのために行うと言う意思表示と、体のあらゆる部分に水が触れるよう、よく洗うことです。体の全ての部分に水が触れるよう、クリーム、マニキュアなど水を弾くものはあらかじめ落としておきます。

聖クルアーンの中で、洗浄(ウドゥー)とは、顔を洗い、両手を肘まで洗い、頭を撫で、両足を踝まで洗うことだと記されています。(クルアーン5章6節)。預言者、ムハンマド(彼に平安と祝福あれ)はウドゥーの方法を、アッラーから天使ジブリールを介して教えられました。ムスリムは、預言者、ムハンマド(彼に平安と祝福あれ)のウドゥーの慣例に従わなければなりません。以下がその方法と手順です。

  1. これからウドゥーを行うと言う意志を明らかにし、「アッラーに悪魔からの御加護を求め願います。慈悲あまぬく慈愛深きアッラーの御名において。我々のためにきれいな水を創られたアッラーに称賛あれ」と言います。
  2. 両手(手のひら、指の間)を手指まで洗います。
  3. 口をすすぎます。
  4. 鼻孔をすすぎます。
  5. 顔を額からあごの下までと、両耳のところまで両手で洗いながら、「慈悲深きアッラーのためにウドゥーを行います」と心の中で唱えます。
  6. 右腕を手首から肘まで、次に左腕を同じように洗います(右から先に洗うこと)
  7. 濡れた両手で、頭を前から後ろにぬぐいます。
  8. 濡れた左右の人指し指で両耳の内側をこすり、濡れた左右の親指で両耳の外側をこすります。
  9. 両足をくるぶしのところまで、右足を先に次に左足を洗います。
  10. 「アッラーよ、あなたに赦しを乞う人々と共に、そして身を清めた人々とあなたの高貴なしもべに、私も入れてください」と嘆願を唱えます。
これらの各動作は1回、2回、あるいは3回ずつ行います。ウドゥーの各動作の中でとり忘れがあったら、もう一度最初からやり直さなければ成りません。動作と動作の間を長く開けすぎないように連続して行います。グスルをする時と同様に、ウドゥーを行う時は、体の各部分に直接水が触れるよう、妨げになる物(指輪など)は取り外しておきます。ウドゥーを行うときには、たとえ水が豊富にあっても、水の保護管理を非常に重要視しています。ウドゥーの方法は男性、女性とも同じです。ムスリムは、ウドゥーが無効になると決められている行為を科に限り、清浄な状態にあります。

ウドゥーが無効となる行為は、男性器、女性器、肛門からの排泄物(放屁を含む)があった場合、睡眠をとった場合(座った状態での睡眠は除く)、手での性器接触、結婚可能な異性(子供は除く)との皮膚接触、そして矢神です。ムスリムは、就寝前やウドゥーが矢効した時に、再びウドゥー再びを行い、常に清浄な状態を保つことが望ましいとされています。ウドゥーは、ムスリムのジハード(信仰のためのあらゆる努力)において、私達自身の中にいる敵に打ち勝つための重要な防御となります。

清浄な状態を保つことは、下劣な欲望から身を守ってくれます。預言者ムハンマド(彼に平安と祝福あれ)の伝承によると、ウドゥーの際に水が体から一滴流れ落ちるたび、罪が一つ帳消しされます。要約すると、ウドゥーは礼拝がアッラーに受け入られるために必要な行為であり、私達の罪を消す助けとなり、また、常に清浄な状態にいることを心がける人々にアッラーの御加護が得られます。肉体的にも精神的にも清浄となるために、どうぞイスラムにおいで下さい。

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イスラムの礼拝

絵画も偶像も象徴もありません。では、ムスリムは何に祈るのでしょうか。お香や線香はなく、賽銭や献花もありません。では、ムスリムは何を使って礼拝するのでしょう。司祭もいません。ではムスリムの礼拝では誰が導くのでしょう。イマーム(導師)は神と人間の仲介者ですか。聖水も孔雀の羽もありません。では、ムスリムはどのようにし祝福を受けるのでしょう。モスクに椅子はありません。では、礼拝のとき、ムスリムはどこに座るのでしょう。この国のムスリムはアラビア語を話しません。では、なぜムスリムはアラビア語で礼拝するのでしょう。大きな礼拝堂、でもそこで礼拝しているムスリムが少ししかいないのはなぜでしょう。

創造主を見ることはできません

ムスリムは不可視の創造主アッラーに祈ります。アッラーは全てを創造されました。アッラーの創造の力は無限です。アッラーが「有れ」と言われるだけで、それは存在するようになるのです。全ては、アッラーからもたらされ、アッラーの元に戻るのです。アッラーには息子も、父もありません。アッラーには配偶者も同僚もなく、人間が想像できるのようなっものとも似てはいないのです。聖クルアーンの中で、深志の創造主は御自身を「アッラー」と呼んでいます。水を飲むとき、私達は井戸を掘ってくれた人のことを思い出すべきだという風に言われます。ムスリムの人達の礼拝の目的は、水も、井戸を掘った人達も含め全てを創造したアッラーを思い出し、感謝するためです。

環境にやさしい礼拝

イスラムの礼拝は聖クルアーンの読誦と一連の姿勢から成る簡単な動作です。紙やほかの物質を燃やしたりすることがないので環境にやさしい礼拝と言えます。イスラムではアッラーに "供物を捧げる" ことは一切しません。アッラーは完全に満ち足りた方で、何も必要としません。

司祭はいません

イスラムの合同での礼拝を導く導師をアラビア語でイマームと言います。イスラムの正しい知識を持ち、クルアーンを上手に読誦し、金曜日の昼の礼拝で人々に説教することができる人がモスクのイマームとして任命されます。イマームは司祭りとは違って、アッラーと人間との仲介者ではありません。ムスリムはアッラーに直接に祈って慈悲を求めます。

理性と論理

イスラムは、信者に聖水をふりかけたり、孔雀の羽で体を打つことが悪運を避け、幸運をもたらすと信じるような盲者ではなく、理性と論理に信仰の基礎を置くよう呼びかけています。アッラーの慈悲と今祝福を受けるためにムスリムは、聖クルアーンと預言者の伝承野中で、許されたものに基づいて生活し、飲酒、麻薬、賭け事、不貞など禁じられたものを遠さげるよう心掛けなければなりません。

礼拝所に椅子はありません

イスラム教徒の礼拝は、立礼、屈礼、正座、そして額を床につける平伏の姿勢をとることは不可能ですので、ムスリムの礼拝所には椅子などの調度品はありません。モスクには特別席はありません。全てのムスリムはアッラーの僕として平等に祈ります。

アラビア語で祈ります。

ムスリムは礼拝のときにはアッラーの御言葉で祈ります。アラビア語で書かれた聖クルアーンの節を読誦します。クルアーンの言語で礼拝することはムスリムの一体性を保証します。ムスリムは世界中どこのモスクでも、困難なく共に礼拝することができます。聖クルアーンの言語で礼拝することは正確さを保証するものです。聖クルアーンの節の意味が翻訳されたものは礼拝では使いません。形の決まった礼拝の終わりに、自分の言語でアッラーの祝福と許しを求めることができます。これがドゥアー、つまり祈願と呼ばれるものです。

清潔な場所での礼拝

ムスリムはモスクや自宅など、清潔な場所ならどこででも礼拝を行うことができます。モスクによってはごくわずかな人々しか礼拝していないところもありますが、この人々は通常モスク周辺の住民や訪問者などです。ムスリム(男性)は金曜日の昼の礼拝をモスクで合同で行うよう義務付けられています。この金曜日の礼拝のときは、モスクは礼拝する人でいっぱいになり、屋内のスペースでは足りずにモスクの敷地内で礼拝することもあります。

問い合わせ:japanese_info@yahoo.co.jp

Saturday, September 19, 2009

唯一の神、アッラーへの信仰

唯一神信仰はイスラムの核心です。神が存在することを認めるだけでは信仰者とはいえません。信仰者であれば、神を神御自身によって描写されたままに受け入れなければなりません。神についての正確な描写を見出すことができるのは、神の言葉そのものが記されたクルアーンのなかだけです。聖クルアーンの中で神は「アッラー」という固有名詞を使っています。アラビア語の名前「アッラー」には性別も複数形もありません。

「アッラーのほかに崇拝すべき神はいない」というのがイスラム教徒の唯一神信仰で最も重要な核です。アッラーには唯一無二、全てのものから自立し、子も両親もなく、その存在は何ものとも比較し得ません。アッラーには配偶者も同位者もありません。預言者、聖人たちを崇拝し、さらに人間によって造られた偶像神を崇拝することは、アッラーだけが唯一、全ての崇拝を受けるに値するというイスラムの教義に真っ向から反しています。全能なるアッラーは、聖クルアーンの中で、アッラーに同位者を配する者達に対して最も厳しい警告を与えています。

それはアッラーに赦されることのない唯一の罪であり、地獄こそがそのような罪を犯した者達の来世での住処です。全能なるアッラーは、人間の五感では把握できません。アッラーを絵画や像によって人間、半人間、あるいは動物のように表現することは大罪です。そのような罪を犯した者は、審判の日、自分の造った偽りの神々に命を吹き込むように言われます。人間にそのようなことができるはずもなく、唯一真正なる神アッラーに服従しなかった罪で、彼らは厳しく罰せられます。唯一の神を信じるとは、不可視の創造主、アッラーを信じることです。

始まりと終わりがある被造物とは異なり、アッラーは全ての始まりの前から存在し、全ての終わりの後も存在し続けます。唯一の神を信じるとは、アッラーが永遠の存在であると信じることです。アッラーは無からあらゆるものを創造します。あるものを存在させるとき、アッラーの「有れ」の一言で、それは存在するのです。アッラーは可視、不可視両世界のあらゆるものを創造しました。唯一の神を信じるとは、アッラーが全ての創造主であり、彼にとって創造はいとも容易いことであると信じることです。アッラーは何も必要としません。アッラーが彼の創造物に求めるものは何もありません。被造物は消耗し、燃え尽きてしまいます。

神が6日間で天地を創造し、疲れて7日目に休憩したと主張する人々がいます。この主張は人間が考えたことで、アッラーは自身の見解ではありません。私達が自分の物と思っているもの(金、財産、知識、技術など)は全て、アッラーの慈悲によって与えられたものです。それらは、アッラーに許可された用い方をするという条件つきで私達に与えられたアッラーからの預かり物です。被造物は自分で自分の必要を満たすことはできません。それは、アッラーによって創造されたか供給されたものの投入があって初めて満たされるものです。アッラーは天と地の全てのことを知っています。たった一枚の葉ですら、彼が気づかずに落ちることはありません。全てのものはアッラーの元から来て、定められた期限が過ぎると、アッラーの元へと帰っていきます。アッラーだけが、被造物それぞれの寿命、また、宇宙全体の寿命を知っています。

審判の日、私達は生き返らされ、自分の行いの全てに対する責任を問われます。私達の口は封じられ、私達の手足が記録を「語り」ます。私達の行いの全てが記された記録書が開かれます。その日、家族も友人も、互いに相手を認識することはできません。その日、アッラーに許された者をのぞき、誰も私達の執り成しや弁護することはできません。その日、アッラーのみが裁きの主で、アッラーの意に沿った生き方をした者達は天国へ、そうでなかった者達は地獄へと送られます。アッラーに助けを求めないことは分別のない傲慢で、他者に救いを求めることは全くの無知です。「天にあるものと地にあるものは、王にして聖なる御方、威力比類なく英明なるアッラーに賛美を捧げる」(クルアーン第62章1節)。

つまり、

  • 唯一神信仰はイスラムの核心です。
  • 唯一、全ての崇拝を受けるに値すると言うイスラムの教義に真っ向から反しています。
  • 唯一の神を信じるとは、不可視の創造主、アッラーを信じることです。
  • 唯一の神を信じるとは、アッラーが永遠の存在であると信じることです。
  • 唯一の神を信じるとは、アッラーが全ての創造主であり、彼にとって創造はいとも容易いことであると信じることです。
  • 唯一の神を信じるとは、アッラーが自存していると信じることです。
  • 唯一真正なる神アッラーは疲れません。
  • 唯一の神を信じるとは、アッラーが永遠に力強い方であると信じることです。
  • 唯一の神を信じるとは、アッラーがあらゆるものの所有者であると信じることです。
  • 唯一の神を信じるとは、アッラーがあらゆるものの維持者であると信じることです。
  • 唯一の神を信じるとは、アッラーが全てのことを知っていると信じることです。
  • 唯一の神を信じるとは、アッラーだけが終末のときを知っていると信じることです。
  • 唯一の神を信じるとは、アッラーが最後の審判の日の主宰者であると信じることです。
唯一真正なる神アッラーについてもっとよく知るために聖クルアーンを呼んで下さい。

参照:www.islamonline.net

アッラーとは

ムスリムの神のこと、よく聞かれる質問。
  • アッラーはムスリムの人達の神ですか。
  • アッラーを描いた絵や像がないのはなぜですか。
  • アッラーには "彼" と呼ばれていますが、彼は人間に似ているのですか。
  • 誰がアッラーを作ったのですか。
  • アッラーには息子がいませんか。
  • アッラーには他の名前があるのですか。
  • アッラーには彼を助ける他の神々がいるのですか。
  • アッラーには安息日が必要ですか。
  • アッラーが憐み深い方なら、なぜこんなにもたくさんの苦難があるのですか。
  • アッラーはイエス・キリストの神ですか。
  • アッラーが慈悲深い方なら、彼は私たちの罪を全て許されるのですか。
創造の主

あっらーは可視・不可視の世界の全ての被創造物の主です。アッラーの全ての創造物は、彼を崇拝し、服従します。ムスリムの信仰はイスラムです。それはアッラーの意志に
服従するということです。

絵画がないのはなぜ
アッラーは人間の視覚では捉えられない、人間が想像できるどのようなっものでもないのです。そのためアッラーを人間や人間に似たもの、あるいは動物などの絵や像で表現することはイスラムでは受け入られませんし、重大な罪となります。

男性ではない

日本語には、「彼」に相対する「彼女」と言う言葉があるので、アッラーを彼と呼ぶ場合男性と誤って認識されがちです。「神」の女性形は「女神」です。神には女性のパートナーがいると信じている人々がいます。神を人間の家族的人格へと低めることは、イスラムでは受け入れられません。聖クルアーンで全能の神は自らをアッラーと呼びます。このアラビア語の表現には男性形や女性形、あるいは複数形に相当するものはありません。

アッラーの属性

アッラーの「99の名前」について記した本があります。これらの名前はアッラーの属性です。アッラーは慈愛深い方と表されます。聖クルアーンには99より多くのアッラーの属性が述べられています。

アッラーは永遠

アッラーは永遠です。彼は誰かによって創造されたものではりません。すべてを創造する以前から存在しているのです。彼の創造物は彼を必要としますが、彼の存在にはなにものをも必要としません。アッラーには息子も助手もいません。もし彼に他からの助けが必要だとしたら、彼は自存者ではなく創造主が必要だったということになってしまいます。

彼に似たものは何一つもありません。創造主は彼が創造したものと同じ性質を持つことはあり得ません。彼が創造したものには始めと終わりがあります。アッラーは始まりの以前から存在し、終わりの後にも存在し続けるのです。

永遠に活力に満ちている方

天地創造の後に全能者アッラーが安息日を必要としたと言う考えは人間のものであり、全能者御自身の考えではありません。創造に携わらなかった者達が休憩を取ったのです。アッラーは永遠に活力に満ちています。

唯一の真の神

アッラーとは固有名詞で、唯一絶対神を表し、全ての崇拝を受ける唯一の真の神です。アッラーは、啓示を伝えるために選んだ全ての預言者達の神です。よく知られている預言者達は、ノア、アブラハム、ダーウード、モーセ、イエス、そして最後の預言者、ムハンマドです。

憐れみ深い方

アッラーが、私達に許したことを固く守り、禁じたことを避け、自制すること。これらをしなかったことが私達の苦難を生じさせるもとになっていると考えられます。例えば、なぜ良い人々に悪いことが起こる時期があるのか、私達にはその原因を説明することはできません。アッラーにしか分からないことです。私達はアッラーにいのることによって彼に助けを求めるしかありません。

慈悲深い方

クルアーンの中で全能の神、アッラーは、はっきりと述べています。彼の信者達が、犯した罪を心から悔い改め、繰り返さないことで彼らの罪は許されると。多くのものが、自分達も唯一の真の神アッラーを信じていると言いますが、彼らの日常生活は人や動物などを像った
像を拝み、お守りを身に付け、偶像崇拝の習慣に浸かっています。全能の神アッラーは、間違った神を崇拝することは許されないことだとクルアーンの中ではっきりと述べています。




Friday, September 18, 2009

ラーイラーハイッラッラー

イスラムの信仰は、ラーイラーハイッラッラーに始まり、ラーイラーハイッラッラーに終わります。ラーイラーハイッラッラーとは、アラビア語で、「アラーのほかに神はない」と言う誓いの意味です。「アラー」とは、たくさん神々のうち、イスラム教徒と呼ばれる人たちが崇める神の名ではありません。アラーとは私たちと、私たちを取り巻くすべてを創った方の名です。つまり、アラーとは、私たち全ての存在の大元をつくり、そして、私たち全ての今、ここの存在を支えてくださっている方のことです。そのアラーのほかに神はない、とは、この世界を創造し、それを維持する力と英和を備えたアラーのほかには私たちの拠り所となるものはない、ということです。

絶対絶命の窮地を救うのは

アラビア半島に預言者ムハンマド(彼にアラーの祝福と平安あれ)が使徒として遺わされた当時、今から、1430年ほど前のアラブ人は、木や石などの偶像を部族神として崇拝していました。彼らは、自分たちの創造主がアラーであることを知っていましたが、アラーと自分たちの間を執り成す仲介者として先組伝来の部族神を、なぜそれを神として祭るのか深く考えることもなく崇拝を捧げていたのです。クルアーんの中で、アラーは彼らについて仰せられています。もし、彼らが海で大岩に会ったなら、日々供物を捧げるそうした神々を打ち捨ててアラーに一心に助けを求めるではないか、そのくせ、一旦、無事に陸にたどり着くや、アラーに祈ったことなどなかったかのように、また偶像崇拝に戻るのである。(クルアーン第29章65節、第10章12節参照)。

神とは、まさに絶体絶命の窮地にあって私たちが、「神様!」と呼びかける、一切の限定なしの方です。縁結びの神様、山の神様、日の神様、氏神様といったものが仮にいたとしても、彼らには絶体絶命の窮地を救う力はありません。そして、それらを祭っている当人たちもそのことは実は分かっているのです。

神とは私たちの拠り所

樹齢数百年の大木に不思議なちからが宿っていたり病気を治したり、未来を予知するなど特殊な能力を持った人は確かにいます。でも、だからといって、その木やその人を「神」として崇拝することは間違っています。日本人は昔からそうした尋常でない力を持ったものを「カミ」と呼んできましたが、「アラーのほかに神がない」と言ったときの「神」とは、私たちの存在を支える拠り所のことだからです。

私たちが日々その恩義を間近で感じる太陽をつくり、私たちがその存在をほとんど意義しないものの、それなしには一時も生きられない空気を備え、その他者々、私たちに必要なもの全て、また、必要ではないけれどもわたしたちの生活を豊かで喜びの多いものとする全てを作った方、大木に不思議な力を宿らせ、一部の人に、不思議な能力を授けた方こそ、神として崇拝を捧げられるべきであり、拠り所とするに値する方なのです。

人は神に仕えるためにつくられた

「アラーのほかに神はない」とは、単に宗教的な意味で崇拝の対象となる方はアラーのほかにはいない、ということではありません。なぜなら、なんらかの宗教を信じている人だけではなく、無宗教、無神論の人もまた、自分の「神」を持っているからです。生きる支え、生きがい、というふうに言い換えてもいいかもしれません。人は誰も、「神」なしには生きえません。なぜなら、人はそもそも「神に仕える」ように作られているからです。クルアーンの中でアラーは仰せられました。『我がジン(妖霊)と人間を作ったのは、われに仕えさせるためにほかならない』(第51章56節)。

神には仕えるという性向を植えつけられた私たちは、アラーと言う正しい崇拝対象を得ないと、その代わりとなるものを他に求め、例えば、恋人、子供、会社、国家、芸術、思想、あるいは富、名誉などを「神」とし、それに仕えます。多神教とは、なにも木や石の神々を崇拝することばかりでなく、そうしたものに自己の存在を過度に依存させることもまた、多神教なのです。それらを、「神」とする者は必ず裏切られます。なぜなら、それらは、どんなに揺らぎない価値を持っているように見えても、しょせん有限であり、それゆえ変化と消滅を免れ得ないからです。

欲望という名の神

物であれ、人であれ、何らかのものに自分の存在を過度に依存させるなら、それもまた多神教だといいましたが、もう一つ、さらにやっかいなものを私たちの多くは「神」としています。それは、「私」です。クルアーンの中でアラーは『おまえは己の欲望をかみとするものを見たか』(第25章43節、第45章23節)と仰せられています。外に一切の「神」を持たない者は、自分自身を「神」とし、自分の欲望の声をまさに至上命令としてそれに聞き従うようになります。自分では自分こそが欲望の主のつもりでしょうが、欲望の声に突き働かされ、なりふり構わずその望むところを実現しようとするなら、私は私自身の欲望を神とし、それにしもべとしてかしずいているにほかならないのです。

この多神教のやっかいなところは、自分が多神教に陥っていることに気づきにくいことです。そのため、無神論者ばかりか、信仰者ですら、知らず知らずのうちにこの多神崇拝を犯していることがあるのです。「アラーのほかに神はいない」ということを知っていながら、アラーの命令よりも己の欲望の声を優先させるなら、それは、アラーと並べて己の欲望を神とし、その欲望の神に聴き従ったということになるからです。

神のしもべであること


外から見るとイスラム教徒は、様々な戒律や義務を課せられて非常に窮屈で不自由に見えるかもしれません。が、実際のイスラム教徒、つまり、ムスリムは大きな解放感の中に生きています。なぜなら、彼らはアラーという絶対権威のほかには何も従う必要がないことを知っているからです。ですから、普通の人がその制約の中で生きる社会規範、しきたり、常識、流行に縛られ、振り回される必要がないのです。世間体や人目を気にすることもありません。アラーによって定められた規範、札節を守ることだけに気を使い、アラーに喜ばれることだけを考えればいいのです。

「ラーイラーハイッラッラー(アラーのほかに神はない)」とは、人をあらゆる隷属から開放する言葉なのです。アラーはこの世界の全てを人間のために創り給いました。そして、人間を彼ご自由のために、彼のみに仕えるようにと創り給いました。ですから、人間が自分たちのために創られたものの虜となり、それらに仕えるのは自らに不正をなすことに等しいものです。アラーは人間を「我がしもべ」、つまり、御自身のものと呼ぶことによって人間に栄誉を与えてくださっているのです。

参照 >> http://islamcenter.or.jp (日本語・英語)

Wednesday, September 16, 2009

Fun with English...














erti KAWAII (comel) <> Japanese WANNABE <> Photo capture technique

Kawaii (可愛い)(かわいい) = comel, cute dll yg sama maksudnya. Istilah dalam Bahasa Jepun ini banyak dipakai di seluruh dunia. Di Malaysia, Thailand, Indonesia, Vietnam (bahagian Asia Tenggara) terutamanya, istilah ini mula menjadi terkenal, mungkin daripada pengaruh anime (kartun keluaran Jepun).Selain anime, drama keluaran Jepun juga ada ditayangkan di TV di Malaysia. Seingat saya di 8TV, jam 3.00 petang, setiap Ahad (Tak pasti masih ditayangkan atau tidak). Akibat pengaruh anime dan drama Jepun ini, ramai perempuan2 di Malaysia yang ingin menjadi cantik, lebih tepat lagi kelihatan comel, seperti artis2 Jepun. Ditambah pula dengan adanya internet, mudah untuk mencari gambar2 artis di Jepun (untuk dibuat "rujukan").

Apa itu wannabe? Istilah ini berasal daripada Bahasa Inggeris (want to be) yang disebut dalam bahasa slanga.Ia adalah istilah yang diguna pakai untuk menunjukkan seseorang yang meniru aksi seseorang yang lain.

Sudah menjadi trend zaman sekarang untuk mem'promote' diri seseorang di laman web. Website seperti facebook, friendster, myspace dll menjadi terkenal dalam sekelip mata saja. Ada yang menggunakannya untuk terus berhubung dengan kawan2 lama. Ada juga yang menggunakkannya untuk mencari kenalan baru, dalam dan luar negara. Ambil facebook sebagai contoh. Untuk dikenali orang yang hendak meng'add' kita, kebiasaannya kita meletakkan gambar yang boleh dikenali orang lain. Untuk menjadi lebih presentable, sudah tentu kita akan meletakkan gambar yang terbaik, the best shot!!

Dari sini lahirlah teknik mengambil gambar wajah yang saya panggil "kawaii wannabe technique". Antara ciri-ciri penting teknik ini:
1. Jari simbol 'peace' di mata2. Mulut yang dimuncungkan sedikit (ala-ala hendak berc**m)3. Shot diambil dari kiri atau kanan muka

4. Lebih baik, shot yang diambil dari atas bersudut 30 darjah atau lebih5. Senyum perlu menampakkan gigi6. Kepala sedikit teleng ke kiri atau kanan ketika shot diambil7. Mata perlu diluaskan sedikit (gaya anime)
8. Jari simbol peace di mulut
9. Simbol peace, jari telunjuk dan jari hantu perlu dijarakkan seboleh mungkin

....maka terhasillah gambar yang dianggap kawaii...

Selamat mencuba dan tunjukkan kepada rakan-rakan anda. Pasti anda akan dipanggil "kawaii nye ko! ".

Kenapa saya menghasilkan posting sebegini? Bukan bertujuan menghentam kaum wanita, apa lagi menghalang seseorang mengekspresikan diri. Cuma meluat dengan aksi mereka yang beria-ia hendak menjadi Japanese wannabe, baik dari segi fesyen dan kelakuan. Nasihat saya, biarlah kita bukan seorang yang photogenic sekalipun, bergayalah secara natural. Lebih nampak cantik dan presentable.


Saturday, September 12, 2009

北海道一周の旅 (五つ日間)

こんにちは、今まであまり日本語使っていないので、すみません。

さて、この間の旅の体験できたことを皆に伝えたいな~

この旅は、JRの青春18切符(S切符)を利用して、北海道70%回った。一日目、目的地は稚内だったが、出発のは遅れたから、札幌から旭川しか行けなかった。旭川で一泊した。ワシントンホテルで泊まって、7500¥ぐらいかかった。高いよね。でも到着のも九時だったから、しかたない。

二日目、目的地:稚内。最初の列車に乗った。朝っぱらだったから、寝坊したらまずい。0605の普通電車に乗った。ワンマン列車だった。最初は、「あれー。こんな列車かよ」とびっくりした。旭川と稚内の距離は294.6kmで、普通列車で行くなら、5時間半ぐらいかかる。途中には、眺めが良いから、いつも写真を撮って過ごした。あの日は意外と、天気がよかった。めったにない天気だったよ。

1155ぐらい到着した。「やった!日本の一番上の駅に着いた!」。さあ~次の目的地:ノシャップ岬。せっかく稚内まで来てから、ノシャップ岬と宗谷岬まで行きたいなあ~。
駅前の郵便局へ行って、バスを待った。駅から歩いて、5分ぐらい。バスでは約10分。ノシャップ岬のバス停から歩いて、後5分、岬に着いた。本当にきれいな眺めだわ。

海はすっごくきれいだった。遠くから、礼文島と利尻島がみえる!でも、時間はきついから、のんびりできなかった~。

1310、また駅前のバス停に戻った。その日は晴れだったが、風がよく吹いたから涼しいなぁ~

1345、駅の近くに、バスターミナルまで歩いた。あそこからバスで宗谷岬へ行った。距離は覚えてないけど、時間は50分ぐらいかかった。行きと帰りは2400¥ぐらいだったっけ。夏休みはそろそろ終わっちゃっうので、観光客は少ない。うれしかったけど、寂しかったよね~。宗谷岬では、買わなきゃいけないお土産がある。お土産というか、証明書だ。カードのサイズで100¥。これはあの証明書に書いてあること。「日本最北端到着証明。本日あなたは北緯45度31分日本最北端の地、宗谷岬に到着し、その足跡を印したことを証明いたします。 '09 09-03 14:51」。

宗谷岬の近くに公園がある。面白いもの?ほとんどない。石碑ばっかり。。といっても、眺めはすばらしかった。あの日に稚内へ行ってよかった!

日本最北端、宗谷岬

 見張り所(日本-ロシア戦争、1905)
祈りの塔
USS WAHOO (米国潜水艦)が沈んだ所。80人死亡者。

稚内行けば、このお土産絶対忘れないでね~。(日本最北端到着証明書)

そして、ちょっと買い物したり、写真を撮っただけだ。でも、その時は一緒忘れない。今まで、最高の思い出だ。疲れても、あそこに着いた瞬間、全部消えたんだ。1530、また中央市に戻った。おなかぺこぺこ。断食しているから、我慢しなきゃ。。。
次は、稚内港北防波提ドーム。稚内での海はたまに暴れている。面白いポイント?なし。。=) ただ、写真にすれば、いい写真になる。稚内にいる内に、自然や海の美しさは言葉にできないほど美しい。自然が大好きな人、一度稚内へ行ってみませんか?稚内で駅のすぐ隣のホテルに泊まった。明日の列車は朝早から。そのホテルは和風で、4000¥かかった。

三日目、稚内から網走まで行った。途中で旭川で乗り換えをした。1345、旭川から出発。網走に着くのに、4時間半ぐらいかかった(普通電車)。1830ぐらい到着した。どうして今度は網走というと、いい観光地があるから。その所は、「博物館網走監獄」という所だ。歴史的に、明治23年(1890)、網走囚徒外役所が設けられ1300人の政治犯や重罪人が送られたのが、網走監獄の始まり。昭和59年まで網走刑務所で実際使用されていた。公開は0800~1700 (11~3月は0900~1600)。入所するのに1050¥。所要は約50分。最初はバスで行きたかったけど、荷物が重いし、朝早だったから、タクシーで行っちゃった。自慢できることは、僕が最初の客だ!!個人的に、所内はちょっと怖かった。元刑務所だから。。。本当は、もう一ついい観光地がある。しかし、時間がきついので、行けなかった。それは、「天都山展望台」と「オホーツク流氷館」という所だ。あそこには網走きっての展望と流氷が人気。行かなかったので、写真はなし。。ごめんね~。。インタネットでもあると思う。網走へ行けば、やはりこの二つの観光地は大進めだよ!!

1001、網走駅から釧路へ向かった。1319、釧路駅に着いた。到着したときに、軽い雨だった。それでも、釧路の有名なスポットを探したい。最初の有名な所は「幣舞橋」という。あれは、釧路の発展を見守るシンボル的存在だと言われている。釧路駅から歩いて約13分。幣舞橋のすぐ近くには「釧路フィッシャーマンズワーフ」という所がある。「Kushiro Fisherman's wharf」。「楽しい、旨い、海の街」をキャッチフレーズに、釧路川ウォーターフロント開発の一環として平成元年に建てられた複合施設。

釧路の次は、新得。新得へ着く前に、池田で乗り換えをした。池田町といえば、ワインが有名だ。池田の特徴はワイン城だ。残念だったが、池田駅に到着したときには、すでに夕方だった。本当は帯広に寄りたかったけど、列車は結局新得町にした。新得での到着は10時過ぎた。腹が減ったから、近くに寿司屋に食事をした。そのときこそ、初めてうに寿司を食べた。。味は僕の口にはちょっと。。、近くの旅館にとまった。4000¥かかった。

新得では、面白いところはいくつかある。駅から10、20分ぐらい良い場所がある。例えば、「ベアマウンテン」や「サホロ城」などだ。馬所もある。北海道と言えば、ヒグマと北狐でしょう。あいにくだったが、駅から遠いし、車もなかったから、いけなかった。 =(

最後の日、五日目。0610の列車に乗って、小樽に向かった。その前に、新夕張駅に寄った。夕張の特徴はメロンである。夕張メロンは日本一だ。一番お値段が高い、一番質が良い。夕張メロンは普通一個6000¥~15000¥である。最高は2万¥。お土産も買った。駅内には、おいしそうなメロン饅頭が販売されている。饅頭以外は、プリン。おもに生食されるが、規格外品は市場に出荷せずにメロンブランデー、アイスクリーム、ゼリー、乳飲料などの加工品原料として利用されている。

新夕張 >> 南千歳 >> 小樽。。
今まで行ったところと比べて、小樽は一番きれいな所だと思う。小樽は運河と坂の街と言われている。今、オルゴールとガラスの街とでもいいだけに変身を遂げている。それに"寿司屋通り"も新しい小樽の顔として、知らない人がいない存在になっている。

確かに小樽と言えば、小樽運河が一番有名だ。大正3年(1914)から10年がかりで築かれた運河。昭和61年に道路が造られ、幅は狭くなったものの、うんがの全長は1140m、ガス燈が63基散策路に沿って、設置されている。周辺に昔ながらの石造倉庫が並び、レトロ感にあふれる風景は、小樽に欠かせない観光名所になっている。点々と並ぶガス灯が風情を添え、夜はライトアップが、もう一つの美しさを見せてくれる。

小樽市総合博物館運河館も大進めだ!!。屋根に鯱が乗せられたビル。元倉庫だと思う。館内では、小樽の歴史と昔の小樽の再現が展示されている。館内には明治時代の小間物屋も復元されていて、レ
トロな雰囲気が漂っている。

最後に観光した所は「流氷・凍れ館」というところ。入所料金は780¥。オホーツクの冬の風物詩・流氷世界を通年体験できる施設。マイナス20~41度の中を防寒コートで入館。氷に閉じ込められたマンモスの化石や氷のベッド、ラベンダー・スズランなどの花氷やシャケ・毛ガニなどを氷に閉じ込めた展示物、18mの氷の滑り台もある。

小樽運河
小樽街
小樽の最初の鉄道
きれいな町。。
流氷・凍れ館(館内)
小樽博物館

小樽 >> ニセコ

最後の観光地:ニセコ。ニセコといえば、スキーと答える人が多い。けれども夏はゴルフや乗馬、釣りが始め、スポーツする高原として人気が高い。そして温泉が迎えてくれる。ニセコの特産は南瓜(かぼちゃ)。。と思う。なぜそう判断するのか?ニセコ駅に行けば、大きな南瓜が駅内と駅の周辺に飾り物として飾ってあります。

ニセコ駅

ニセコ駅ホーム
駅の周り。。かぼちゃはここの名産かな~?

合計、60904¥。

(一日目)
JR,S切符:11500¥
電車(東室蘭):2200¥+1100¥
ホテル(ワシントンホテル、旭川):7560¥
食事:500¥

(二日目)
ばす券:420¥(ノシャップ岬行き)
ばす券:2430¥(宗谷岬行き)
ホテル(サンホテル):5250¥
食事:2100¥(寿司)+382¥=2482¥
お土産:3007¥(キーホルダーなど)

(三日目)
食事:600¥
ホテルサンパーク:4000¥

(四日目)
タクシー代:2500¥
博物館網走監獄:1050¥
網走 > 釧路 (特急電車):3570¥
旅館:3760¥

(五日目、最後日)
食事:2110¥
新夕張(快速電車):1600¥
南千歳 > 小樽(特急電車):1410¥
お土産:525¥
博物館入館代:300¥
流氷・冷れ館入館代:780¥
タクシー代:2680¥

お得でしょう。北海道一周の旅をしてみませんか。節約が上手な人なら、より安い旅もできると思うよ!

Thursday, September 10, 2009

Mengulas isu "kepala lembu" di Shah Alam... alahai Malaysia..

Another political issue from Malaysia....

Yesterday I watched a stunning video from a blog and Youtube. The title was quite stunning. "Demonstrasi kepala lembu (Dead cow's head paraded)". WOW! Interesting! From the video, I knew there was an issue regarding temples in Shah Alam, Selangor, Malaysia. As you can see from this picture, a man is carrying a dead cow's head as a 'present' for the state government.

Then there was a footage from a meeting between the 'threaten' residents and the state representative. Interesting! A Malay 'pakcik' was booing the representatives, coupled with 'some' insults, which never reflects his identity as an easterner, as a Malaysian and more importantly, as a Muslim. The issue: Malay residents object the state decision to transfer a Hindu temple to a Malay majority residential area. It is said that 80% of the resident are Malays.

Hmmm.... there's even an interview to another 'pakcik' which seems pious to me, with his 'kopiah' on his head. He told the reporter, this is an aqidah (faith) issue. As a Malay, he swore with his own blood to defend his Islam faith. As I watched through the video, I laughed many times. What the temple is going to do with his faith as a Muslim? According to that 'pakcik' (the 2nd one), the temple symbolizes an 'intervention' in Muslim community.

The main point is, why the cow's head? As we know, cow is considered as sacred among Hindu devotees. In Malay society, cow is a symbol of laziness and dumb. When asked why they brought the cow's head, they answered, "This is a symbol of DUMB state government, by messing with Malay residents sensitivity". In the other hand, I wonder if they don't realize that they were the one who is 'playing with fire'. Doesn't it considered as an insult to the Hindus? Maybe it was a coincidence by involving the cow's head issue with the temple issue.

What's more interesting, it's said that most of the people who joined the parade is not a 'Surau-man', a term which referred to a man who always visits mosque for prayer, in other words, pious. Do they really know the hukum (rules) in Islam (in terms of tolerance with non-Muslim)? I think they don't.

Wake-up man!! Islam wasn't descended only for Arabs. NOT EVEN specially for Malays. Islam is global. Anyone can embrace Islam. Yes, Islam is an official religion in Malaysia. But that doesn't permits you to claim Islam is solely for Malays. There's a mentality among conservative Malays that say when you embrace Islam (in Malaysia), then you MUST become part of Malays. It's no wonder why some people from other races afraid to get to know about Islam. They thought they will be no longer a Chinese or Indian if they embrace Islam. Of course they love their races. See? Not only you try to defend your false belief, you even worsen the image of Islam itself.

If you don't respect others, they won't respect you. Islam never stops non-Muslims community from practicing their religion, even among the Muslim community. From historical side, when Salahuhddin al-Ayyubi (Saladin) liberated Baitulmaqdis from the crusades, he ordered his men to spare the Christians and Jews who lived inside. He never ordered his men to tear down any churches or synagogues inside. Why?? He's the winner. He had rights to do anything he likes. Well, let's go back to basic. Islam teaches us to RESPECT others belief, even though we never agree with them.

Below I enclosed another blogger's view regarding this issue.

"Nak bagitau, masjid di Amerika ni banyak. Tapi boleh dikatakan tiada kawasan di Amerika ini majoritinya Islam. Ertinya, orang-orang bukan Islam di Amerika bertoleransi dan bersikap terbuka membenarkan orang-orang Islam yang minoriti membuka Masjid dan Musolla.

Bayangkan kalau alasan yang digunakan oleh Penduduk Seksyen 23, “yakni Seksyen 23 ini majoriti Islam maka tak boleh dibuat kuil di sini”, digunakan oleh orang2 di Amerika. Nescaya, tiada masjid yang boleh dibina di mana-mana tempat di Amerika (kecuali di Guantanamo Bay).

Ertinya, apa yang dilakukan oleh penduduk Seksyen 23 yang telah berdemonstrasi kepala lembu dan bersikap macam beruk kena belacan sewaktu dialog, seperti memberi lesen kepada penduduk2 bukan Islam di Amerika untuk MENUTUP kesemua masjid di sana serta menghalang pembinaan mana-mana masjid baru di sana.

Ertinya tindakan penduduk Seksyen 23 meletakkan kedudukan masjid2 di Amerika dalam risiko yang besar memandangkan isu pembinaan kuil ini sangat luas dibincangkan dalam internet. Dan, Amerika merupakan negara yang luas jangkauan internet mereka".

(http://www.malaysiawaves.com/2009/09/kalau-orang-amerika-guna-alasan.html)

It's OK to be patriotic, to love your country, but not to the extend of insulting other's religion, in the name of your religion (or political stance). Please think about other's sensitivity. As a Muslim, we should make Al-Quran and Al-Hadith as our main references to settle down any problems that may occur.

(This post wasn't intended to blame any political party in Malaysia. Just sharing my thoughts as Malaysian and A Muslim) =)