Sunday, September 27, 2009

イスラムの礼拝

絵画も偶像も象徴もありません。では、ムスリムは何に祈るのでしょうか。お香や線香はなく、賽銭や献花もありません。では、ムスリムは何を使って礼拝するのでしょう。司祭もいません。ではムスリムの礼拝では誰が導くのでしょう。イマーム(導師)は神と人間の仲介者ですか。聖水も孔雀の羽もありません。では、ムスリムはどのようにし祝福を受けるのでしょう。モスクに椅子はありません。では、礼拝のとき、ムスリムはどこに座るのでしょう。この国のムスリムはアラビア語を話しません。では、なぜムスリムはアラビア語で礼拝するのでしょう。大きな礼拝堂、でもそこで礼拝しているムスリムが少ししかいないのはなぜでしょう。

創造主を見ることはできません

ムスリムは不可視の創造主アッラーに祈ります。アッラーは全てを創造されました。アッラーの創造の力は無限です。アッラーが「有れ」と言われるだけで、それは存在するようになるのです。全ては、アッラーからもたらされ、アッラーの元に戻るのです。アッラーには息子も、父もありません。アッラーには配偶者も同僚もなく、人間が想像できるのようなっものとも似てはいないのです。聖クルアーンの中で、深志の創造主は御自身を「アッラー」と呼んでいます。水を飲むとき、私達は井戸を掘ってくれた人のことを思い出すべきだという風に言われます。ムスリムの人達の礼拝の目的は、水も、井戸を掘った人達も含め全てを創造したアッラーを思い出し、感謝するためです。

環境にやさしい礼拝

イスラムの礼拝は聖クルアーンの読誦と一連の姿勢から成る簡単な動作です。紙やほかの物質を燃やしたりすることがないので環境にやさしい礼拝と言えます。イスラムではアッラーに "供物を捧げる" ことは一切しません。アッラーは完全に満ち足りた方で、何も必要としません。

司祭はいません

イスラムの合同での礼拝を導く導師をアラビア語でイマームと言います。イスラムの正しい知識を持ち、クルアーンを上手に読誦し、金曜日の昼の礼拝で人々に説教することができる人がモスクのイマームとして任命されます。イマームは司祭りとは違って、アッラーと人間との仲介者ではありません。ムスリムはアッラーに直接に祈って慈悲を求めます。

理性と論理

イスラムは、信者に聖水をふりかけたり、孔雀の羽で体を打つことが悪運を避け、幸運をもたらすと信じるような盲者ではなく、理性と論理に信仰の基礎を置くよう呼びかけています。アッラーの慈悲と今祝福を受けるためにムスリムは、聖クルアーンと預言者の伝承野中で、許されたものに基づいて生活し、飲酒、麻薬、賭け事、不貞など禁じられたものを遠さげるよう心掛けなければなりません。

礼拝所に椅子はありません

イスラム教徒の礼拝は、立礼、屈礼、正座、そして額を床につける平伏の姿勢をとることは不可能ですので、ムスリムの礼拝所には椅子などの調度品はありません。モスクには特別席はありません。全てのムスリムはアッラーの僕として平等に祈ります。

アラビア語で祈ります。

ムスリムは礼拝のときにはアッラーの御言葉で祈ります。アラビア語で書かれた聖クルアーンの節を読誦します。クルアーンの言語で礼拝することはムスリムの一体性を保証します。ムスリムは世界中どこのモスクでも、困難なく共に礼拝することができます。聖クルアーンの言語で礼拝することは正確さを保証するものです。聖クルアーンの節の意味が翻訳されたものは礼拝では使いません。形の決まった礼拝の終わりに、自分の言語でアッラーの祝福と許しを求めることができます。これがドゥアー、つまり祈願と呼ばれるものです。

清潔な場所での礼拝

ムスリムはモスクや自宅など、清潔な場所ならどこででも礼拝を行うことができます。モスクによってはごくわずかな人々しか礼拝していないところもありますが、この人々は通常モスク周辺の住民や訪問者などです。ムスリム(男性)は金曜日の昼の礼拝をモスクで合同で行うよう義務付けられています。この金曜日の礼拝のときは、モスクは礼拝する人でいっぱいになり、屋内のスペースでは足りずにモスクの敷地内で礼拝することもあります。

問い合わせ:japanese_info@yahoo.co.jp

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