私達にはナフス(自我)があるため、だれかの奴隷であるという考えにはいつも抵抗を覚えます。私達は誰に対しても自分を低く置くことは絶対にしたくないのです。真実は、私達は皆奴隷だということです。私達に選べるのは「誰の」奴隷であるかということだけです。
ナフス(自我)の奴隷
殆どの人は自分のナフス(自我)に仕えています。社会的地位、高学歴、高収入など、どんなものが手に入ったとしても、私たちのナフス(自我)は休むことなくもっと要求してきます。まるで非道な奴隷の雇い主のように私たちのナフス(自我)は、こうせよ、ああせよ、こうなれ、ああなれ、と強要し続けるのです。私達は自分は自由だと思っています。私達は、誰にも仕えていないと思っています。真実は、私達はナフス(自我)の奴隷のだということです。代わりにアラーに仕えることを選ぶまでは。
試練としてのナフス(自我)
私たちのナフス(自我)は恩恵にも、災いのもとにもなりえます。それは私達の試練です。私達をアッラーの元に近づけることにも、あるいはアッラーから私達を引き離すことにも成りえます。それは私達が、何を選ぶかによります。もし私達が、自分のナフス(自我)の要求に依然として奴隷としてのように捕らわれたままでいると、ついには災難と不幸に至ります。私達の思考と行動は、私達のナフス(自我)を強くするか、打ち砕くかどちらかです。夢ばかりを追い、働動にいちいち反応し、欲望を満たし続けることがナフス(自我)を強くします。
礼拝し、食事し、働動を抑制することがナフス(自我))を飼いならし、弱くします。もし、私達にナフス(自我)を飼いならすことができるようになれば、それは真の解放と幸福への切符となります。それは慈悲深いアッラーへの道程へとつながる正しい道に私達を据えてくるものなのです。自分のやり方で礼拝することは、ナフス(自我)に仕えることだと、今は分かります。むろん、アッラーは私達に、彼に対して心を開くよう望んでいます。アッラーに心から礼拝することは呼吸をするように自然であるべきです。でも、それは要求されている毎日の礼拝とは別のことです。もし、自分が好きなときにだけ好みの方法で礼拝をしたとしたら、私達はまだ自分のナフス(時が)に仕えているのです。
慈悲深いアッラーに仕える。
アッラーは、1日5回一定の方法で礼拝することを私達に命ずることで、ナフス(自我)を抑制するための秘訣を私達に与えています。毎日の礼拝の中で、私達の都合や快適さは考慮すべきことではないのです。慈悲深いアッラーの命令に完全に、そして無条件に服従することだけが、私たちにとって考慮すべきことなのです。
困ったナフス(自我)!
もちろんナフスは、私達がナフスを無視し、代わりにアッラーに服従することが気に入れません。ナフスは文句を言い、私達にこういいます。「何でこんな方法で礼拝しなきゃならないの?礼拝なんかしたくない!」私達の返事はこうです。「あのね、お前はボスじゃないのよ、アッラーが私主で、私はアッラーに仕えるの。」「お前を幸せにすることが私の人生の目的ではないの。おまえに仕えていると私は不幸になってしまうわ。」
「アッラーに仕えることこそ私の本当の目的であり、私の喜びなの。」「毎日の礼拝は、おまえ(ナフス)と私がどんなに必死に要求に応じても決して満足しません。でも、アッラーは私達のどんな努力にも満足してくれます。私達が日々ナフス(自我)に向けている注意と奉仕をアッラーに捧げたら、どんな結果になるか想像してみてください。ジハードとは、自分のナフス(自我)をコントロールするための戦いです。ジハード、つまり自分の内面の敵ナフス(自我)との戦いに奮闘努力することが最も難しく優れた戦いであると言うことが、今は分かります。あなたのナフス(自我)を仰得る方法を示すアッラーの道へようこそ。
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