Friday, September 18, 2009

ラーイラーハイッラッラー

イスラムの信仰は、ラーイラーハイッラッラーに始まり、ラーイラーハイッラッラーに終わります。ラーイラーハイッラッラーとは、アラビア語で、「アラーのほかに神はない」と言う誓いの意味です。「アラー」とは、たくさん神々のうち、イスラム教徒と呼ばれる人たちが崇める神の名ではありません。アラーとは私たちと、私たちを取り巻くすべてを創った方の名です。つまり、アラーとは、私たち全ての存在の大元をつくり、そして、私たち全ての今、ここの存在を支えてくださっている方のことです。そのアラーのほかに神はない、とは、この世界を創造し、それを維持する力と英和を備えたアラーのほかには私たちの拠り所となるものはない、ということです。

絶対絶命の窮地を救うのは

アラビア半島に預言者ムハンマド(彼にアラーの祝福と平安あれ)が使徒として遺わされた当時、今から、1430年ほど前のアラブ人は、木や石などの偶像を部族神として崇拝していました。彼らは、自分たちの創造主がアラーであることを知っていましたが、アラーと自分たちの間を執り成す仲介者として先組伝来の部族神を、なぜそれを神として祭るのか深く考えることもなく崇拝を捧げていたのです。クルアーんの中で、アラーは彼らについて仰せられています。もし、彼らが海で大岩に会ったなら、日々供物を捧げるそうした神々を打ち捨ててアラーに一心に助けを求めるではないか、そのくせ、一旦、無事に陸にたどり着くや、アラーに祈ったことなどなかったかのように、また偶像崇拝に戻るのである。(クルアーン第29章65節、第10章12節参照)。

神とは、まさに絶体絶命の窮地にあって私たちが、「神様!」と呼びかける、一切の限定なしの方です。縁結びの神様、山の神様、日の神様、氏神様といったものが仮にいたとしても、彼らには絶体絶命の窮地を救う力はありません。そして、それらを祭っている当人たちもそのことは実は分かっているのです。

神とは私たちの拠り所

樹齢数百年の大木に不思議なちからが宿っていたり病気を治したり、未来を予知するなど特殊な能力を持った人は確かにいます。でも、だからといって、その木やその人を「神」として崇拝することは間違っています。日本人は昔からそうした尋常でない力を持ったものを「カミ」と呼んできましたが、「アラーのほかに神がない」と言ったときの「神」とは、私たちの存在を支える拠り所のことだからです。

私たちが日々その恩義を間近で感じる太陽をつくり、私たちがその存在をほとんど意義しないものの、それなしには一時も生きられない空気を備え、その他者々、私たちに必要なもの全て、また、必要ではないけれどもわたしたちの生活を豊かで喜びの多いものとする全てを作った方、大木に不思議な力を宿らせ、一部の人に、不思議な能力を授けた方こそ、神として崇拝を捧げられるべきであり、拠り所とするに値する方なのです。

人は神に仕えるためにつくられた

「アラーのほかに神はない」とは、単に宗教的な意味で崇拝の対象となる方はアラーのほかにはいない、ということではありません。なぜなら、なんらかの宗教を信じている人だけではなく、無宗教、無神論の人もまた、自分の「神」を持っているからです。生きる支え、生きがい、というふうに言い換えてもいいかもしれません。人は誰も、「神」なしには生きえません。なぜなら、人はそもそも「神に仕える」ように作られているからです。クルアーンの中でアラーは仰せられました。『我がジン(妖霊)と人間を作ったのは、われに仕えさせるためにほかならない』(第51章56節)。

神には仕えるという性向を植えつけられた私たちは、アラーと言う正しい崇拝対象を得ないと、その代わりとなるものを他に求め、例えば、恋人、子供、会社、国家、芸術、思想、あるいは富、名誉などを「神」とし、それに仕えます。多神教とは、なにも木や石の神々を崇拝することばかりでなく、そうしたものに自己の存在を過度に依存させることもまた、多神教なのです。それらを、「神」とする者は必ず裏切られます。なぜなら、それらは、どんなに揺らぎない価値を持っているように見えても、しょせん有限であり、それゆえ変化と消滅を免れ得ないからです。

欲望という名の神

物であれ、人であれ、何らかのものに自分の存在を過度に依存させるなら、それもまた多神教だといいましたが、もう一つ、さらにやっかいなものを私たちの多くは「神」としています。それは、「私」です。クルアーンの中でアラーは『おまえは己の欲望をかみとするものを見たか』(第25章43節、第45章23節)と仰せられています。外に一切の「神」を持たない者は、自分自身を「神」とし、自分の欲望の声をまさに至上命令としてそれに聞き従うようになります。自分では自分こそが欲望の主のつもりでしょうが、欲望の声に突き働かされ、なりふり構わずその望むところを実現しようとするなら、私は私自身の欲望を神とし、それにしもべとしてかしずいているにほかならないのです。

この多神教のやっかいなところは、自分が多神教に陥っていることに気づきにくいことです。そのため、無神論者ばかりか、信仰者ですら、知らず知らずのうちにこの多神崇拝を犯していることがあるのです。「アラーのほかに神はいない」ということを知っていながら、アラーの命令よりも己の欲望の声を優先させるなら、それは、アラーと並べて己の欲望を神とし、その欲望の神に聴き従ったということになるからです。

神のしもべであること


外から見るとイスラム教徒は、様々な戒律や義務を課せられて非常に窮屈で不自由に見えるかもしれません。が、実際のイスラム教徒、つまり、ムスリムは大きな解放感の中に生きています。なぜなら、彼らはアラーという絶対権威のほかには何も従う必要がないことを知っているからです。ですから、普通の人がその制約の中で生きる社会規範、しきたり、常識、流行に縛られ、振り回される必要がないのです。世間体や人目を気にすることもありません。アラーによって定められた規範、札節を守ることだけに気を使い、アラーに喜ばれることだけを考えればいいのです。

「ラーイラーハイッラッラー(アラーのほかに神はない)」とは、人をあらゆる隷属から開放する言葉なのです。アラーはこの世界の全てを人間のために創り給いました。そして、人間を彼ご自由のために、彼のみに仕えるようにと創り給いました。ですから、人間が自分たちのために創られたものの虜となり、それらに仕えるのは自らに不正をなすことに等しいものです。アラーは人間を「我がしもべ」、つまり、御自身のものと呼ぶことによって人間に栄誉を与えてくださっているのです。

参照 >> http://islamcenter.or.jp (日本語・英語)

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